――「現場を知らない現実主義」が政治を壊す
「冷笑」という言葉は、意外に定義が難しい。
皮肉を言うことが冷笑なのか。悲観的なら冷笑なのか。何かを批判すれば冷笑なのか。どれも違う。
私が冷笑について考えていて、最もしっくりきた表現は、「現場を知らない現実主義」だった。
冷笑する人はしばしば「世の中そんなに甘くない」「現実を見ろ」「そんな理想論ではうまくいかない」と言う。なるほど、言葉だけ聞けば現実主義者である。
だが、本当に現実を知っているのだろうか。
本当に現場を知っている人の批判は、往々にして具体的である。
「その制度ではここに人員が足りない」
「この予算規模では持続しない」
「制度上は可能だが、実務上この工程で止まる」
「過去に似た仕組みを導入したが、この条件のため失敗した」
そういう話になる。
一方、冷笑的な現実主義は具体論を要求されると、「普通に考えれば分かる」「社会はそんな単純じゃない」「人間なんてそんなものだ」と、かえって抽象論へ逃げていくことがある。
ここに、冷笑と批判を分ける一つの線がある。
懐疑は、現実を見るために疑う。
冷笑は、現実を見なくて済むように疑う。
理想主義と現実主義ではなく、「現場を知っているか」
政治についても同じことが言える。
私たちは政治をすぐ「左か右か」「理想主義か現実主義か」という横軸で見ようとする。
しかし、もう一本の軸を入れた方がいい。
「その問題について、どこまで現場を知っているか」という縦軸である。
これは人間として上か下かという意味ではない。対象となる現実への距離と、認識の解像度の話だ。
理想主義者にも現場を知る人と知らない人がいる。現実主義者にも同じように両方いる。
そして厄介なのは、「現場を知らない理想主義」は比較的見抜きやすいのに、「現場を知らない現実主義」は非常にもっともらしく聞こえることだ。
「それは無理だ」
「世の中を知らない」
「そんなに簡単ではない」
否定するだけなら、詳しい説明はいらないからである。
逆に現場をよく知っている人が、「それならできますよ」「この条件を変えれば可能です」と言うこともある。外から見ると楽観主義や理想論に見えるが、実際にはその人の方が現実を知っているかもしれない。
悲観的であることと、現実的であることは別物だ。
本当に詳しい人かどうかは、反論してみれば分かる
では、「現場を知る批判」と「現場を知らない批判」をどう区別するのか。
意外に原始的な方法が有効だと思う。
一度、「いや、お前の方がものを知らないのではないか」と対抗してみるのである。
もちろん罵倒するという意味ではない。
「なぜそうなるのか」
「どの制度が障害になるのか」
「誰がその判断をするのか」
「実例はあるのか」
「条件が変われば結論も変わるのか」
と聞いていく。
本当に詳しい人なら、そこから話が細かくなる。
こちらの知らなかった制度、慣行、数字、経緯が出てくる。そこでこちらが「それは知らなかった」と負けられるなら、それは立派な対話である。
逆に「常識だから」「そんなことも分からないのか」としか返ってこないなら、その人が持っているのは現場知識ではなく、「自分は分かっている側だ」という自己像かもしれない。
その意味では、冷笑的な論客であっても、根拠を示そうとする人はまだましなのである。
理由を説明すれば、間違うことができる。
「AだからBになる」と言えば、「Aが違う」「AからBは導けない」と反論できる。
的外れなことを言っていても、検証可能な形で発言している限り、まだ対話の土俵にはいる。
最も厄介なのは、何も具体的なことを言わず、「お前は現実を知らない」という位置だけを確保する話法である。
左右対立に見えて、実は「どの階層を見ているか」の問題
この問題は、現在の日本政治を見ると特によく分かる。
左側からは「自民党は経済を分かっていない」「右派は危険な安全保障論を唱えている」という批判が出る。
右側からは「左派は国防を分かっていない」「経済を知らない」「理想論ばかりだ」という批判が出る。
ところが、その議論のかなりの部分で、実際に観察されているのは政党ではない。
支持者である。
ここを混同してはいけない。
政党、政策を作る議員、一般議員、党員、支持者、SNS上で活動する熱心な支持者は、それぞれ別の集団である。
何百万人もの支持者がいれば、その中には当然とんでもないことを言う人もいる。
仮に500万人の支持者のうち0.1%しか極端な人がいなくても、5000人になる。
5000人もいれば、SNS上では毎日どこかで誰かが驚くような発言をする。それを敵対陣営が拾い続ければ、「こいつらは毎日こんなことを言っている」というフィードを無限に作ることができる。
しかし、「毎日見かける」と「その集団に一般的である」は全く違う。
現在の自民党の公式な安全保障政策を読めば、防衛力だけではなく、外交、日米同盟、同志国との協力、経済安全保障、技術、情報、継戦能力などを組み合わせて考えている。
立憲民主党の直近の政策を読んでも、「国防を捨てる」といった内容ではない。専守防衛を掲げながら、領土の防衛、日米関係、多国間の安全保障枠組みなどを政策として論じている。
当然、両党には大きな政策差がある。
しかし、その差は「片方は日本を守りたい、片方は日本を滅ぼしたい」といった漫画のようなものではない。
経済についても同じだ。自民党は現在、投資、賃上げ、生産性、財政持続性などを組み合わせた政策を掲げ、立憲民主党も人への投資、賃上げ、重点産業への投資、再分配を組み合わせた経済政策を提示している。両者への評価は分かれて当然だが、少なくとも「何も考えていない人たち同士」の争いではない。
政策レベルまで降りれば、本当の対立が見える。
何に投資するのか。どこまで財政リスクを取るのか。抑止力をどう構築するのか。外交による緊張緩和をどこまで期待するのか。社会保障と成長投資をどう配分するのか。
そこでは、正解が簡単には出ない。
ところが支持者レベルまで上がると――あるいは下がると言うべきか――「左は馬鹿だ」「右は馬鹿だ」という話になる。
相手の「最も馬鹿な一人」を見る政治界隈
SNS政治には奇妙な非対称性がある。
自分の側の変な支持者を見たとき、人は「こんな奴は一部だ」と思う。
しかし相手側の変な支持者を見ると、「ほら、やっぱりこいつらはこういう連中だ」と思う。
自分の陣営については内部の多様性が見える。相手の陣営は一枚岩に見える。
こうして右派は最も愚かな左派支持者を探し、左派は最も愚かな右派支持者を探す。
双方が、相手陣営の最低点を、その陣営の平均値だと思い始める。
SNSは、この誤認との相性が非常にいい。
Twitter/Xについての研究では、政治的なアウトグループとのやり取りはイングループ内より毒性が高い傾向が複数国で確認されている。また、SNS上の怒りを観察した人は、実際の投稿者が感じている以上に相手集団の怒りや敵意を大きく推定しやすいという研究もある。
さらにTwitter利用と、その直後の政治的分極化や怒りの増加との関連を観察した研究もある。重要なのは「SNSがすべての分断を作った」と単純化しないことだが、少なくとも短文中心のオンライン環境が、怒りや敵味方の認識と無関係ではないことは研究上も示されている。
そして何より、SNSでは複雑な説明より単純な断定の方が強い。
「中国との経済関係を維持しながら抑止力を高めるには、サプライチェーンと同盟関係を……」
という話より、
「媚中だ」
の方が速い。
「防衛力強化は必要だが、エスカレーション管理と外交的コミュニケーションも……」
より、
「戦争したいだけだ」
の方が速い。
経済も同じだ。
財政、金利、物価、賃金、生産性、為替、人口動態を全部考えれば話は面倒になる。
「財務省が悪い」
「自民党が無能」
「左翼が経済を知らない」
なら数秒で理解できる。
短い、強い、敵が分かる。
だから広がる。
実際、SNSではネガティブなニュースほど共有されやすく、とりわけ政治記事では敵対する政治集団についての否定的な情報が共有されやすいという大規模分析もある。
冷笑は「知識の不足」を「優越感」で埋める
ここで最初の話に戻る。
冷笑とは何なのか。
私は、こう考えるようになった。
冷笑とは、現実についての知識の不足を、「自分は相手より現実を知っている」という相対的な優越感で補う態度である。
だから左右どちらにも発生する。
左派が右派に向かって「経済も国際情勢も分かっていない」と笑う。
右派が左派に向かって「何も知らない不勉強な馬鹿だ」と笑う。
しかし、その批判者自身に安全保障や経済の専門知識があるとは限らない。
極端な排外論や極端な武装論を唱えている人が、「左翼は安全保障を知らない」と言っていることもある。
逆に国際政治上の制約をほとんど考えずに、「右派は戦争をしたいだけだ」と断じる人もいる。
全員が、誰かの無知を発見する。
そして他人の無知を発見することで、自分の無知を確認しなくて済む。
これが冷笑の連鎖である。
「民衆が悪い」「中国が悪い」――万能説明の誘惑
連鎖が進むと、やがて万能説明が現れる。
「民主主義だから駄目なんだ」
「民衆は馬鹿だから仕方ない」
「すべて中国が悪い」
「全部財務省のせいだ」
「経済政策には何の問題もない」
「野党が全部悪い」
「与党が全部悪い」
こうした説明の気持ちよさは、考えなくて済むことにある。
中国は日本の安全保障を考える上で非常に重要な要素である。しかし、中国だけを見れば日本自身の政策選択が消える。
有権者は間違える。しかし、政治家も官僚も専門家も間違える。
民主主義にはポピュリズムの問題がある。しかし、権威主義体制にも情報集約や政策修正の問題がある。
経済には外的要因がある。しかし、国内政策で変えられる部分もある。
現実は、だいたい複数の原因が同時に働いている。
冷笑はその複雑さを一言で消してくれる。
「結局あいつらが馬鹿だから」
便利である。
そして便利すぎる。
現場を知っている人も、常に正しいわけではない
もちろん、「現場を知っている」というだけで正解になるわけでもない。
現場に長くいる人ほど、既存の慣行を当然だと思い込むこともある。
「昔からこうやっている」
「実務では無理だ」
「この業界では常識だ」
という言葉の中に、本当に動かせない制約と、単なる慣習が混在していることもある。
だから必要なのは、現場崇拝ではない。
抽象的な構造を見る能力と、具体的な現場を見る能力を往復することだ。
上空から制度全体を見て、地上に降りて実装を見る。そしてまた上空に戻って考える。
本当に強い人は、この上下運動ができる。
冷笑する人は、上空から「世の中とはこういうものだ」と言い切ったまま降りてこない。
現場だけを知る人は、地上から一歩も離れられない。
必要なのはその間を動くことである。
政治を見るとき、「誰が馬鹿か」から離れる
政策を評価するなら、政党の政策を見るべきだ。
政治家を評価するなら、その政治家の発言と実績を見るべきだ。
支持者の傾向を論じるなら、目についた数人ではなく、可能なら調査や統計を見るべきだ。
SNSで見つけた一人の奇妙な支持者は、基本的にはその一人として扱うべきである。
もちろん支持者の世論が政党を動かすことはある。
しかしその場合も、「こんな発言をする支持者がいた」から直ちに「この政党はこうだ」と推論するのではなく、その支持者層がどれほどの規模で、候補者選定や政策形成にどれほど影響しているのかを見る必要がある。
面倒である。
政治についてまともに考えることは、徹底して面倒だ。
しかし、その面倒さこそが現実なのだと思う。
「分からない」と言えること
大規模な民主主義社会では、私たちは自分の知らないことについて判断を迫られる。
ほとんどの有権者は外交官ではない。
軍人でもない。
中央銀行家でも財政学者でもない。
エネルギー技術者でも半導体技術者でもない。
それでも選挙では、安全保障、財政、エネルギー、産業政策について何らかの判断をしなければならない。
全てを自分で理解することなど不可能だ。
だから民主主義に必要なのは、「全員が専門家になること」ではない。
自分の知識の境界線を知ることではないだろうか。
「ここまでは分かる」
「ここから先は知らない」
「この人の説明は自分より詳しい」
「ただし、この部分は確かめたい」
「反対側の専門家はどう言っているのか」
そういう態度である。
ところがSNSでは、「分からない」は弱い。
「常識だろ」は強い。
「判断材料が足りない」は拡散されない。
「こいつら全員馬鹿」は拡散される。
ここに、冷笑が社会的に再生産される条件がある。
右の病でも左の病でもない。
若者だけの病でも、老人だけの病でもない。
これは、複雑すぎる社会を理解しなければならない人間が、理解できない不安を「自分は分かっている」という感覚で処理するときに発生する病理なのだと思う。
そして、その病理から抜ける方法は、おそらく楽観主義ではない。
「世の中そんなに悪くないよ」と言い聞かせることでもない。
もっと攻撃的なくらいの懐疑でいい。
「本当にそうなのか」
「具体的にはどういうことなのか」
「お前の方が間違っている可能性はないのか」
「俺の方が間違っている可能性はないのか」
そこまで互いの認識をぶつけて、最後には負ける準備をしておく。
それを、少し上品な言葉では対話という。
冷笑と対話の違いは、相手への態度の優しさではない。
自分の認識まで検証の対象にできるかどうかである。
冷笑する人は「俺は分かっている。あいつらは分かっていない」で止まる。
対話する人は、その次へ進む。
「では、どちらが本当に現実を知っているのか、確かめよう」
政治について必要なのは、おそらくその態度である。

